
山近義幸氏プロフィール
昭和36年11月22日山口県玖珂郡由宇町の農村に5人兄弟の末っ子として生まれる。小・中学校と、いわゆるトップ集団として目立った存在だったが、兄弟の死など不運もあって山口県立岩陽高校時代に大きく挫折。27歳に現在のザメディアジョン設立まで広告代理店、タウン誌の会社などで苦難の修行時代を過ごす。法人化と同時に就職および採用支援事業に進出。大卒人材ベンチャー企業特化型の採用アウトソーシング会社としてまったく新しいビジネスモデルに取り組んでいる。
同社が運営している
『人事ドットコムhttp://www.91922.com/』には、毎月約50万アクセスがあり、その人気振りが伺える。また自身が「必殺面接人」として毎年30社の面接を担当。現場体験をふんだんに交えての生々しい講演も好評。毎年1万人の学生と会い、1,000人の採用担当者・総務担当者と会うことを自らに義務付けている。
主な著書に、『新・内定の達人'05』『社運を上げる人財哲学!』『“そいつ”に社運をあずけられるのか』などがある。
“ご縁と感謝”の経営
おおばせいこ(以下
)「本日はどうぞ宜しくお願いします。本来ですと、私が取材させていただく側に立つときはニュートラルな色の服を選ぶのですが、今日は山近社長のパワーに押しつぶされないよう、マタドールが闘牛に見せる布のように赤を着てきました。どうぞお手やわらかに(笑)。さて、早速、ご自身の半生に迫っていきたいのですが。多感な少年時代にご兄弟の死というショッキングな体験をされていますが。」
山近社長(以下
)「5人兄弟で...、幼少時まだものごころつく前に病気で2人亡くし、また3人目は産まれる前に亡くし、ずっと姉と2人兄弟できたんですが、小学5年生の時に、4人目となるその姉を癌で亡くしました。とりわけ大好きだった姉の死は大きな喪失感、その後の挫折感につながりました。認めたくなくて、お葬式でも親に怒られるくらい笑ってたんです。そこから本当にすべてがばかばかしく思え、両親に対しても「お姉ちゃんが亡くなってあなただけが頼りよ」という言葉を機に、今まで入退院をくり返す姉につきっきりで放っておかれたという孤独感が爆発し、口をきかなくなるなど反抗的な態度をとるようになりました。」
「でも今の山近社長を見ていますと、逆に自分がしっかりしなきゃ、と、お考えになりそうですが。」
「自立心につながればよかったんですが、ひねくれる方向にいってしまいました。
今にしてみれば、4人目の子供を亡くし痛恨の極みである親に、傷に塩を塗る行為でした。それでも中学の頃は、成績も常に十位以内に入り、新聞部長をこなすなど優等生でした。でもその挫折感は根強くまた首をもたげ、高校は進学校をトップクラスで入学したにもかかわらず、卒業時には下から二番目という、学校にはただ登校するだけの文字通り“生きた屍”でした。もちろん友達も一人もいない、テレビが友達、雑誌が友達、すべてを否定していた__ただそんな中でも唯一話しをし、心を許したのは祖母の存在でした。両親と接しようとしない様子にも口を出さず、暖かく見守ってくれました。」
「ここまで山近社長のお話を伺ってきましたが...、その当時、孤独をうめたテレビ、雑誌(読んだのはもっぱら明星や平凡などその当時の芸能情報誌)が、やはりその後、広告の仕事へと就くきっかけとつながっていくのでしょうか。」
「高校は卒業したものの、もちろん進学も就職のあてもなかった。ただ、“生きた屍”状態だった高校時代に、見かねた父親がアルバイトを進めてくれたんですね。漠然とやり始めた吉野家だったんですが、__“ありがとう”も“いらっしゃいませ”も言えなかった人間が一年半の間、教育され、鍛えられ、働いてお金を得ることの喜びを知ったんです。今思えば不遇の時代それが唯一の救いとなったのですが。__それで何も決まっていなかった卒業後、とりあえず近くのスーパーに就職したんです。でも一ヶ月で辞めました(笑)。」
「何か目覚めたのでしょうか。」
「いや、スーパーのレジ(ラベラー)をやらせていただいていたんですが、男の仕事じゃないって思ったんですよ。女性を目の前にして大変失礼なこと言ってますが(一同笑)。その後、辞めてから、広告代理店に採用されるわけですが..。
テレビや雑誌を見ていて“できる”って思ったんですよね。コピーの天才なんで(笑)。結果的に言えば、やはり孤独に読んでいた膨大な量の雑誌が、自分の中に蓄積されていたから記事が書けたんでしょう。そしてその当時、大手出版社で、高卒中途採用というのは異例中の異例でしたから、久々に人に対してありがたいという気持ち、今度は一生懸命やってみようかという気持ちがめばえたんですね。もちろん厳しい面も多々あったんですが、それも心地よく、はじめて社会に対して“嬉しい”と思ったんです。」
「その頃には両親との確執も?」
「いや、まだありました。就職して仕事が面白くなり23歳頃からが雪解けでしょうか。でも、自分でも偉いと思うのはそれまでの間、両親とは相変わらずの関係でも、毎週、姉とこの頃すでに他界していた祖母のお墓参りには行ってたんですよ。」
「(具体的に両親へのひねくれたエピソードをいくつかお聞きした後)両親に対しての行為と、お墓参りという行為と...非常にアンバランスに感じるのですが(一同笑)。
さて、だいぶ現在に近づいてまいりましたが..。その後、27歳でご自身の会社を設立、また法人化とともに採用支援事業に進出とありますが。」
「23、24歳頃、年収も多く仕事にも飽きてきて調子にのっていたんですよ。浜田省吾さんに「サングラスをとらないなら取材できない」と言ったり、タレントさんを待たせて「今、顔を洗ってきますから」と言ったり、チャゲ&飛鳥さんと野球をやってボールをぶつけても謝らなかったり、と。
それでもみんな来る...“取材をしてやる”という傲慢な自分がいやで、これではいけないと独立という形でゼロに戻したんですね。どん底に落とすならビルの屋上だなと、当時『傷だらけの天使』というドラマがあってそれをまねたのですが(笑)、ビルの屋上に事務所を構えそこからもう一度スタートさせ、そして平成2年に就職情報誌のお声をいただきまして..。ここで皆さんによく言っている“縁”というのが出でくるわけです。今の自分を支えている二つの大きな事__独立して始めたテレビジョンの仕事も就職情報誌の仕事も両者とも人からの紹介なんです。ご縁なんです。」
「私もはじめて講演をお聞きした際、ひとくちに縁といいましても、縁には円、宴、援、艶、炎、とあるのだと、山近社長独自の切り口に感動しましたが、ただ、その縁をつかむというのもやはり才能だと思うのですが、何か成功の秘訣はありますか?」
「僕は出会った人に必ずメールを出すんですが何割返ってくると思いますか?一割か二割ですよ。そう僕はメールを出す、ハガキを出す、本をお送りする、年に一回“感謝祭”というパーティーを開く、すると、よくやりますねと言われる。でもこれは僕にとっては普通の事なんです。じゃあこの当たり前のフルコースをやるかといえば意外と皆やらない。僕は出会った人との縁が切れるのが怖いんです。寂しがり屋だから縁を大切にするし、しゃべれないから質問して相手とのコミュニケーションを図る。寂しがり屋としゃべれないという欠点は今となってはありがたいことです。それと例えば、AさんにBさんを紹介したとしてそれがつながって欲しいという意識がとても強いんです。また次はAさんとA'さんというように...。また逆にそのように紹介した人から恩返しという形でご紹介を受けたり、と。ご縁のキャッチボールといってるんですが、そうやって縁の琴線にふれて人が集まる、縁が広がっていくことが嬉しいんです。これが、ご縁と感謝なんです。」
山近社長に一問一答
編集後記
「学生の面接時にはどこを見るのですか?」という問いに迷わず「目です。」との答え。
自分との触れ合いを通して学生が目覚めていく様子に喜びを感じるという。 今回、私もすべてを見透かされているような感覚を覚えながらインタビューさせていただいた。 一日に偶然が三回は必ずあるという、それは偶然ではなく必然な事、神が降臨しているんです、と、笑顔でお話しして下さった山近社長。 ときどき冗談を交えながら、幾多もの言葉を操っていく....その姿はとても雄弁に映ったが、自称影武者という近しい人によると、何かに憑かれたように仕事をする表の顔と、とてもシャイな少年のような裏の顔があるのだとか。この人について行こうというカリスマ的なオーラと、何か危うげな一人にさせてはいけない、ほうっておけないオーラが共存しているのだとか。その魅力にみんなとりつかれてしまうのだ。かくいう私もこのインタビューの間、一体どれが真実(ほんとう)の顔?と、めっくてみたい衝動に何度もかられた。“ご縁と感謝”の哲学、今回は生い立ちや仕事についてお聞きしたが、次回は、結婚式でも歌わせていただき、また、私のライブにも足を運んで下さる素敵な奥様や愛息子“洸”くんとのエピソード、恋愛観やプライベートにも近づいてみたい。 ありがとうございました!!!








